パリ紀行

パリの不動産と衛生事情

 ロンドン、ニューヨーク、そしてパリ。経済不況とはまるで関係がないように不動産価格は上がり続けている。

 局所的には東京よりも人口が過密しているというパリ。1800年ごろ、すでに55万人であった人口は、現在では4倍以上。スペースが限られている花の都パリは最も人口が多い都市として、不動産価格は世界の都市で間違いなく上位に入る。

 パリに行くときはいつも違う地区に滞在、辺りを散策するのだが、今回は人気のマレ地区に滞在した。ホテルはどこも似たりよったりなので、アパルトマンを借りてみた。

 公園に面した1830年築という二部屋のアパルトマンの窓は大きく、家具もレトロなものばかり。パリジャンになった気分で寝室に案内されると、部屋の中には浴槽が…。ベッドの隣は柱かと思えば、よく見るとスリットがある。まるで隠し戸のようだ。あけてみると、“モン・デユー!”(オー・マイ・ゴッド!)このような時ばかり神の名を口にすることは冒涜か。なんとそこには洗濯機があった。まるで洗濯機をはめてから柱を作り、ベッドを備えつけたように一寸の隙間もない。

 わがパリのアパルトマンは三年前に大家さんが購入するまではフランス人老夫婦がお風呂なしで住んでいたらしい。現在の持ち主は、老朽化したアパルトマンを安く買い上げ、改装したところわずかなあいだに不動産価値が2倍になったと嬉しそうだ。

フランス人はいつからお風呂嫌いになったのだろうか。中世の頃からフランス人はペスト、コレラ、結核などの疫病に悩まされてきた。風呂は病気になるという先入観もあり、敬遠されてきたようだ。人々は洗面器などにためた水で体を拭き、香水をかけたことは知られている。シャワーがイギリス発明されたのは19世紀というが、公衆衛生学が普及し始めたのも19世紀ごろからである。

最後にトイレに案内されてみて驚いた。このように小さなトイレは東京でも見たことがない。貯水タンクはくみ上げ式で水が漏れている。

つい最近まで、というか、まだシャワーさえないアパルトマンは決して珍しくないようだ。お風呂があるだけでも感謝するべきかもしれない。

 (保険毎日新聞掲載)

恋人たちの「鍵」

パリには色がある。どこを見ても芸術的に見える。それは数ある美術館に限らず、あらゆる場面が絵のようにさえ思えてくる。

 セーヌ川にかかるルーブル美術館とサンジェルマン地区を結ぶ「芸術橋」(ポンデザール)はパリで一番古い鉄製の橋だ。1803年に建設されたもとの橋は損傷が激しかったため30年前に歩行者専用の橋として作りなおされた。

その芸術橋の柵には無数の「鍵」がかけられている。あるわあるわ、数千個はある。正確にはほとんどが南京錠で、中には自転車にかける大きなタイプの鍵もある。そしてよく見ると名前やハートの絵が書いてある。

一体、誰が始めたのか。数年前から、この「ラブ・ロック(鍵)」はパリの名物のひとつとなった。もとはというと、イタリア人作家が書いた小説で、愛を誓った恋人たちがローマ近くのミルヴィオ橋の街灯にロックをつけて二度とそれがはずれないよう、鍵を川に捨てたことからくる。小説は映画化され、街灯の柱にたくさんの鍵がつけられたため、その重みで曲がってしまったという。

パリでは二年前にパリ市役所が景観そぐわないと、すべてを除去してしまったところ、パリ内外から猛烈な抗議がおきた。そしてまたいつのまにか「鍵だらけの橋」となってしまったらしい。恋の邪魔をするものは「馬に蹴られて云々」ということか。

2000年ごろからパリやローマだけでなく、ロシア、ドイツ、バルカン半島、カナダ、南アメリカなどの街にかかる橋でも似たような現象があちこちで起きたという「ラブ・ロック」現象。モスクワのルズコフ橋では、新婚のカップルが鍵をかけられるように特製の鉄柱を設けた。このまま増え続けると、パリ市もなんらかの対策を採らざるをえないだろう。

(保険毎日新聞掲載)

パリの中国人

 これまでに10回はパリを訪れているにもかかわらず、エッフェル塔にのぼったことがなかった。今度こそはと思い、列に並ぶこと約半時間。さすがに真冬のパリは寒い。

 ようやく自分の番が回ってきたと思えば、中国人の集団が怒涛のようにやってきた。エレベーターは中国人ばかり。まるで中国にいるようだ。

 いま、中国人の中産階級が一番行きたいのは欧州、しかも一番人気があるのはパリだという。以前の日本人の団体がかわいらしく見えるほど、中国人パワーはすごい。「左に並んでください」とフランス人が言っても、列に並ぶことに慣れていないのか、聞く耳さえもたない。

そして、中国人たちはパリへの旅行費用の三分の一、約30万円を洋服、香水、酒やみやげ物に費やすとか。ある調査によれば、一昨年、中国人がフラ ンスで購入した免税品は総額65千万ユーロ(650億円・1ユーロ=100円換算)にのぼり、中国人はフランスで「一番のお得意様」となっている。

 一方、第一次世界大戦以降フランスでは労働力が不足したため、パリに移住した中国人も少なくなかった。モダンな画廊が並ぶマレー地区にはかつて貴族が住み、戦後は多くのユダヤ人が住んでいた。今日、共和国広場の付近は、まるで中国租界のようだ。カトリック教会には中国語の垂れ幕がかかり、 旧正月を祝う赤い提灯があちこちにぶら下がっている。このあたりには中国人が営むアクセサリー、皮、布製品の問屋が並んでいる。

「中国のユダヤ人」といわれるほど商才に長けた、温州人が多いという。小売はせず、卸売りだけの店も多く、小売お断りの店では最低100ユーロ買わなくてはならない。一個のアクセサリーが日本円で約5ユーロ(500円)では、相当な数を買わなければならない。

 近くには、かつてルイ16世とマリー・アントワネット、子供たちがコンコルド広場で処刑されるまで捕らえられていた監獄があった。この監獄はもともと中世のテンプル騎士団が12世紀に建てた修道院だった。したがって、私が住んだアパートの前の道は「テンプル通り」という名前だった。ナポレオンがこの監獄を取り壊した後、現在では公園となり、早朝に中国人たちが集まり、気功をやっていた。
(保険毎日新聞掲載)

セーヌ河畔の青空本屋さん

 「ブキニスト」という職業を聞いて、「古本屋」を思い浮かべる人は、相当なパリ通である。

パリ名物の一つとなったブキニス トたちは、「1992年からユネスコの世界遺産として認められた」と誇らしく胸を張る。その発展の歴史は400年前にまでさかのぼり、世界最大の青空本屋でもある。古本屋というより、骨董屋としての自信と誇りを持っている。もっとも、骨董屋が古書籍の売買を始めたのが起源であったという。セーヌ川沿いに並ぶパリのブキニストたちは、いまやこの町に欠かせない風物として、景色に溶け込んでいる。

 ところ狭しと並ぶ書籍のタイトル を見れば、ブキニストの力量が伝わってくるようだ。バルザック、フロベール、サルトルなど、フランスの哲学や文学書から、クメール・ルージュ、 インドシナの外人部隊など、現代史に至るまで、カバーする分野も多岐に渡っている。19世紀の終わりからパリで流行ったジャポニスム(絵画や文学への日本の影響)のせいか、日本に関する書籍もある。パリの古い地図や版画のコピーなども並び、総計で推定40万点が売られてい るという。

 しかし、電子ブックが急速に普及していることもあり、客は減る一方だ。1冊も売れない日もある。ブキニストたちは 店舗の賃貸料を市に支払っているので、売り上げゼロの日はきつい。しかたなく、安っぽい中国製のパリ土産を売っている店もある。観光客向けの土産物を売ることは本来ブキニストの業務として認められないが、パリ市は彼らの厳しい台所事情を知っているため、見てみないふりをしている。それでも毎年、廃業するブキニストはあとをたたない。ネットで販売した方が効率が良いうえ、寒さの中や雨天の日に店番をする必要 もない。

 パリ市は、「ブキニストを救う会」を立ち上げ、ブキニストたちを存続させるための策を練り始めている。この街には カフェと同じようにブキニストたちが必要なのである。

(保険毎日新聞掲載)

料理の世界にもジャポニスム

 大学時代からの友人Aは大のパリ好きで、この町に住み始めて早25年。Aによれば、この10年間のパリの不動産の高騰ぶりはすさまじい、パリ を訪れる人は、毎年800万人で、ロンドンの1500万人に次ぐ人気の街だ。

 そんなパリでは最近、日本人の シェフたちが大人気だ。ミシュランの星を取得した日本人シェフもいる。彼らが作りだす和洋折衷のフランス料理が話題を呼んでいる。懐石料理の手法をフランス料理に取り入れ、野菜をふんだんに使い、芸術的にしあげる日本人シェフたちの力量が認められるようになったのだ。

 筆者は昨年、初めて現代フランス 料理の礎を築いた人物の名を耳にした。オーギュスト・エスコフィエ(1846-1935)は、フランス料理を体系化し、独自のレシピを考案し、洗練させただけでなく、シェフという職業に規律を導入し、地位を向上させた。

 私は日本であるホテルに泊まっ た。そこでは「エスコフィエ」に感化され、三年間パリで修業したという日本人シェフが働いていた。彼の料理は、「フランス料理はヘビーで 胃がもたれる」という筆者の先入観を瞬時の内に破壊した。私事であるが、そのとき筆者は高齢の両親がほぼ同時に要介護状態となり、心身と もに疲れていた。わずかな休暇をとって伊豆に着いた時は、食欲もなく夕食を抜こうと思ったのだが、そのホテルでは夕食がセットになっていた。

 30種類の野菜を組み合わせた色 とりどりのオードブル。魚、肉料理とコースが進むうちに、生き返った思いであった。食事が至福の時と感じられた。シェフによれば、バ ター、クリームを使わず、地元の食材を駆使したという。彼は、「日本人として、どうすれば和の世界をフランス料理に取り込めるか」を常に考えているという。

 19世紀には、日本美術がフランス美術に影響を与えた。いまや日本のシェフたちが、フランス料理に新風を吹き込んでいる。フランスから日本に修業にやってくるシェフもい る。料理にも国境がなくなってきたのはうれしい。

(保険毎日新聞掲載)

ブルガリア紀行

ブルガリアはまだ社会主義の雰囲気の残る国です。

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